健一が担ぎ込まれたのは商店街の奥にある総合病院だった。ベッドに横たわっていた健一は、京と明日美、そして律子が病室に入ってきたのに気づき、バツの悪い顔をした。点滴を受けているが顔色は悪くない。
「心配したのよ!」
律子が目に涙を浮かべ健一をなじった。
「ごめん......」
健一は頭を下げた。ふっくらした童顔のせいで母親に怒られている子供のようにも見える。
「どんな具合なの?」
「どんなって......何が?」
「健ちゃんの体に決まっているじゃない!」
「軽い食中毒だって。昨日の夜に買ったおにぎりを昼に食べたら当たっちゃったみたいなんだ」
律子はため息をついた。
「どうして出て行ったりしたんですか?」
明日美が聞いた。
「がっかりしたと言うか、何だか気が抜けてしまって......」
健一はしばらく押し黙り、律子を見て続けた。
「律ちゃん、時々『あとほんの少しだけお金に余裕があったらいいのに』なんて言っていたよね。だから僕、律ちゃんのために何とかしなければと思っていたんだ」
「だからって株や投資信託に投資するなんて危険だわ」
「株や投資信託での運用が本当に危険なのかな?」
京が口を挟んだ。
「律子さん『給料が減ってしまうかもしれない時代なんだから、預金で安全に運用するべきだ。預金は減らないから』と言われたそうですね。でも今はそうとは限らないんじゃないかな」
「どういうこと?」
「あたしたちがずっと暮らしてきたデフレの世の中では、確かに律子さんの言う通りだったのよ」
明日美が答える。
「預金していればお金は減らなかった。それどころかデフレではモノの値段が下がり、お金の価値が上がるから、預金の価値は上がり続けたわ。でもモノの値段が上がり出すと、歯車は逆に回り出すの。お金の価値が下がるから、預金の価値も下がってしまうのよ」
「リスクを取らず安全に運用したつもりでも目減りしてしまうんだね」
京が言い、明日美がうなずいた。
「その通りよ。モノの値段が上がる時代には、リスクを取って物価上昇分以上の利回りを期待できる金融商品で運用した方が合理的だとも言えるの。健一さんが言っていた住宅ローンにしても、お金の価値が下がっていくので返済が有利になる場合もあるわ。買い物も待っていると値段が上がってしまうので早く買った方がいいかもしれない」
「まるで鏡の中の世界みたいだね。ものごとが反対になってしまうんだ」
京が言った。
「今、百パーセント、下りてきました。健一さんがコーヒーカップを鏡の前に置いたのは、そのことを伝えたかったからですね」
「ええ......そのつもりでした。律ちゃん、頑固なところがあるから、僕が言葉で言うよりも、僕の謎かけを自分で解こうとする過程で気づいてくれたらと思ったんです」
「あたし、心配で謎解きどころじゃなかったわ」
律子は泣き笑いのような顔をした。

編集部の壁掛け時計が午後6時の時報を鳴らした。京は帰り支度を始めようと腰を浮かしかけたが、思い直して3月号の特集のための資料を読み続けた。今日は律子と健一のことで午後外出していたので、仕事は予定よりも進んでいない。
5分もしないうちにスマホが鳴った。明日美からだった。
「けっこう思い切ったアドバイスをしたわよ」
明日美はいきなり言った。京が会社に戻った後も明日美は病室に居残り、律子と健一に貯めた500万円の運用についてアドバイスしたのだった。
「2人は共働きで年齢が若いから、500万円のうち4割程度はリスクを取って投資信託などで運用してもいいと言ったの」
「律子さん、納得してくれたの?」
「もちろん! 律子、『オタクで子供っぽいと思っていた健ちゃんがここまであたしのことを考えてくれていた』なんて言っていたわ。今度のことはまさに雨降って地固まるね」
「夫婦なんだから夫が妻のことを考えるのは当たり前だよ」
「あら京ちゃん、あたしのことをそこまで考えてくれているの?」

仕事を早々に切り上げ編集部を出た京は、自宅の最寄り駅近くにあるショッピングモールのインテリア・雑貨店に立ち寄った。律子から三面鏡ドレッサーのテーブルに載せられたコーヒーカップを見せられて、「白い磁器のコーヒーカップが欲しい」と明日美が言っていたのを改めて思い出したのだ。
店頭には以前、明日美が「素敵!」と言っていたコーヒーカップのセットが今も陳列されていた。二客で1万5000円という値段に京は一瞬たじろいだが、「買い物も待っていると値段が上がってしまうので早く買った方がいいかもしれない」という明日美の言葉に背中を押され、手に取った。
京がマンションのドアノブに鍵を差し込もうとしたその時、ドアが開き、明日美が大きな瞳を見開いて夫を出迎えた。唇を嬉しそうに逆への字型に曲げている。
「あたし、思い切って買っちゃった!」
ダイニングテーブルの上にあるモノを見た京は我が目を疑った。白い磁器のコーヒーカップだ。
夫婦でそれぞれ1セットずつ買ってしまったのだった。

天ノ川京のマネーコラム

物価が下がる時と上がる時とでは合理的な行動が変わる

物価は今、じわじわと上がり続けています。総務省が今年1月18日に発表した2018年12月の全国消費者物価指数(私たちがふだん購入している商品やサービスの値動きを測定した指数)は前年同月比0.7%上昇しました。上昇は24カ月連続で、2018年を通しても前年比0.9%上昇しました。日本銀行が目指す物価上昇率2%の目標にはまだ到達していませんが、物価が下がり続けるデフレ状態からはひとまず脱却したと言っていいでしょう。
この変化は私たちのお金との付き合い方にも影響を与えています。明日美が言うように「物価が下がる時と上がる時とでは合理的な行動が変わる」からです。デフレの時には低利でも預金で運用するのは合理的でした。モノの値段が下がり続けるので預金の価値は実質的には上がり続けたからです。しかしモノの値段が上がり続けると、リスクを取って物価上昇分以上の利回りを期待できる金融商品で運用した方が合理的だと言えます。預金の利率以上にモノの値段が上がれば預金が目減りしてしまうからです。借金にしてもお金の価値が下がり続けるので返済が有利になる場合もあります。
私たちはデフレでのお金との付き合い方に慣らされてしまいました。それを今、新たにする必要があるのでしょう。

登場人物

  • 天ノ川京(あまのがわ・きょう/主人公)

    33歳、マネー誌の編集者。推理小説を愛し推理作家を目指している。趣味は謎解き。優しい性格で妻の明日美に振り回される。

  • 天ノ川明日美(あまのがわ・あすみ)

    34歳、京の妻、フリーのファイナンシャルプランナー。好奇心旺盛で周辺で起きるマネーの謎にことごとく首を突っ込む。

  • 篤田律子(とくた・りつこ)

    33歳。明日美の大学時代のゼミの後輩。お金をどう運用するかで夫の健一と衝突し、夫が出ていってしまったと明日美に打ち明ける。

  • 篤田健一(とくた・けんいち)

    31歳、律子の夫。律子に謎かけをして姿をくらます。

渋谷 和宏 (しぶやかずひろ)

執筆:渋谷 和宏 (しぶやかずひろ)

作家・経済ジャーナリスト。大学卒業後、日経BP社入社。「日経ビジネスアソシエ」を創刊、編集長に。ビジネス局長等務めた後、2014年独立。大正大学表現学部客員教授。1997年に長編ミステリー「錆色(さびいろ)の警鐘」(中央公論新社)で作家デビュー。「シューイチ」(日本テレビ)レギュラーコメンテーターとしてもおなじみ。

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