人生の折れ線グラフ -「いままで」と「これから」-人生の折れ線グラフ
-「いままで」と「これから」-

2018.01.24

サッカー界を牽引し、輝かしいキャリアを築いてきた澤さん。しかし、栄光をつかむまでには、数々の挫折や苦悩がありました。当時の澤さんはどんな挑戦をし、どう困難を乗り越えてきたのか。ボールを蹴り始めてから引退するまで、山あり谷ありだったサッカー人生を振り返り、次の一歩を踏み出すためのヒントを探ります。

サッカーだけで食べていくのは現実的ではなかった

酒井前編では、引退後のお話を中心にうかがいましたが、後編では、澤さんのサッカー選手としてのキャリアを振り返ってみたいんですけど、6歳のときにサッカーボールと出会って、中学1年生でもう年齢制限のない成人のチームに所属されていたのですよね?

:はい、当時は今よりもっと女子がサッカーをできる環境が少なかったので、とにかく「サッカーを続けたい」という一心で入りました。中学時代はまだプロになりたいとか、サッカーを仕事にしたいという思いはありませんでしたね。高校生になり、プロ契約をされている先輩たちの姿を見たり、話を聞いたりするなかで、少しずつ憧れを持つようになりました。

酒井:初めてサッカー選手としてお給料をもらったのはいつ頃でしたか?

:確か、高校生の終わりぐらいだと思います。プロとして稼ぐというより、ちょっとしたお小遣いをもらうみたいな感じでしたけれど(笑)。

酒井:当初はお給料をもらってもサッカーだけで生活できるほどではなかった。

:そうですね。いつかサッカーで食べていきたいという夢はありましたけど、現実的には厳しいとも思っていました。当時は、お金のことよりも「もっとサッカーをうまくなりたい!」という思いが強かったです。

チームの財政難が、アメリカ行きを後押し

酒井:1999年に渡米してアメリカの女子サッカーリーグでデビューされていますが、どのような経緯でアメリカ行きを決めたのですか?

:90年代はとても厳しい時代でした。企業チームが撤退したり、スポンサーさんもいなくなってしまったり…。私もチームとプロ契約をしていましたが、チームの財政が悪化して「チームに残るのであれば、バイトを探してほしい」と言わるほどの状況でした。

酒井:サッカーをしながらアルバイトも、となると生活的にも厳しいですね。

:その頃にアメリカの話を聞いて、渡米を決めました。

酒井:一方、アメリカ行きへの不安はありませんでしたか?

:アメリカでの不安というよりは、当時、大学に通っていたので、中退することによって、入学金や学費を払ってもらった親へ申し訳ないという思いがありました。しかし親から「1年間留学したと思えば?」と言ってもらえて、気持ちが固まりましたね。

酒井:渡米にあたっての費用はどのようにされたのですか?

:お金は全然なかったです。貯金も100万円もなかったと思います。

酒井:よく「転職するときは給料の半年分ぐらいは持っていたほうがいい」と言いますけど、アメリカリーグへの移籍ともなるともっと必要になるでしょうから、お金の面を考えても、よく決心されたと思います。

:正直、そのときはあまり先のことは考えていませんでした。とにかく「アメリカでやりたい」「自分の力を試したい」という気持ちだけでしたね。

酒井:挑戦したい自分の気持ちを大切にされたのですね。

:どんなときでも、何をやるにも、私は「やらないで後悔する」より、「やって後悔する」方を選びます。もしやらなかったら、「何であのとき、やらなかったのだろう」とずっと引きずってしまうから。例えダメでも、「あのとき、やったんだ」と思えるので、やらないのとは気持ちがまったく違います。

酒井:その挑戦があったからこそ、今の澤さんがあるのですね。

:たぶん、あのときアメリカへ渡っていなかったら、今の私はいないと思いますね。行ってよかったと、心から思います。

酒井:アメリカでプロ契約してから、生活は安定されましたか?

:そうですね。普通に生活ができて、ちょっと贅沢もできるといった感じでした。その頃のアメリカの女子サッカーの環境は日本に比べてよかったのです。トップ選手は、いいところに住んで、いいクルマに乗って、という感じでしたから。

酒井:選手として実力があって、プライベートもいい生活を送っていたら、憧れますよね。目指す人も増えて業界が活性化します。

:スター選手がCMに出演していたり、どこの公園でも子どもたちが芝生でサッカーをしていたり…すごく活気がありました。

結果を出すことで、環境を変えることができた

酒井:やりがいのあるアメリカ生活でしたが、2003年にリーグが消滅して帰国。その翌年には右ヒザを故障して手術と、澤さんにとって厳しい時期だったかと思いますが、当時の心境はいかがでしたか?

:悪いときって重なりますよね。でも、私は基本的にポジティブなので、イヤなことがあっても「落ちるところまで落ちたら、あとは上がるだけ」と考えるようにしています。悪いことを悪いように捉えない。自分のなかで「こういう風にしたい」「こうなったらいいな」と常に前向きに生活をしていると、いつの間にか自然にトンネルを抜けています。

酒井:人生の折れ線グラフを見ても、落ち込むときがあっても必ず上がるときがきています。次の転機が来たのはいつ頃でしたか?

:北京2008オリンピックでベスト4に入ったあたりですね。準決勝まで残ったチームがアメリカ、ドイツ、ブラジル、日本。当時はまだ、「そんな強豪チームのなかに、私たちがいていいの?」という気持ちでした。

酒井:周りの見る目も変わってきたのではないですか。

:まったく変わりましたね! 女子サッカーを取り上げる記事も、試合に来てくれる観客の方も増えて!

酒井:女子サッカーが盛り上がってきたのですね。

:2011年に世界一になってから、さらに大きく変わりました。チームにも個人にも、スポンサーさんが付くようになったりして。やっぱりプロとしては、結果がすべてなので、国際舞台で活躍した分の見返りは大きいですね。

酒井:優勝後は、世界最高のプレイヤーにも選ばれましたしね。

:憧れの選手と並んで私がいるなんて…もうずっと夢の中にいるみたいでした。もちろん、サッカーはチームプレーだから、みんながいての自分。たまたま私が、タイミングよく活躍できたのですけど。

人生のプラスもマイナスも、次のチャレンジの布石に

酒井:順風満帆のなか、2012年の春に突然、めまいが続くなど、体調を崩したそうですね。それを克服して、ロンドン2012オリンピックで銀メダルを獲得された。澤さんのキャリアは、苦難と栄光の連続ですね。

:人生はいいことばかりじゃないし、悪いことばかりでもないですね。みんなそれぞれ、バランスよく訪れるものだと思います。それに、たとえ悪いことが起こっても、すべてがマイナスではなく、そこに何か意味があるはずだ、と考えるようにしています。例えばケガをしたときは、ゆっくり考える時間ができたり、ケガから復帰した後には、当たり前にプレーできる喜びをあらためて感じられたり。何事も次の挑戦への布石だと考えれば、決して無駄なことじゃないですから。

酒井:素敵な考え方ですね。今、まさに新しい挑戦を迎えようとしている人もいると思うのですが、そんな人たちにメッセージを贈るとしたら、どんな言葉をかけたいですか?

:新しいことを始めるときは、誰しも必ず不安はつきまとうものですが、まずチャレンジしてほしいです。それがもしダメでも、あきらめずに何度もチャレンジし続ける先に、未来が待っていると思うので。

酒井:一歩踏み出す勇気ですよね。

:何かしらの行動に移さないと。待っているだけじゃ、何も変わらないですから。

酒井:「自分の挑戦」が「未来への投資」だと考えれば勇気が持てますね。

:迷ったときはチャレンジする、というスタンスは引退後も、変わっていません。私も世界を獲るのに、プロになってから17〜18年かかっています。1年や2年で結果を出すのは難しいかもしれません。でも、その間に様々な準備をしたり、土台を作ったりすることも大切です。努力し続けることは大変ですけど、障害にぶつかっても挫けずに頑張ってほしいです。

三井住友銀行は東京2020オリンピック・パラリンピックのゴールドパートナー(銀行)です。

澤 穂希(さわ ほまれ)

1978年生まれ、東京都出身。15歳で日本代表に初選出され、男女合わせて日本サッカー史上、歴代トップの205試合出場と83得点を記録。2015年8月に結婚し、同年12月に現役を引退。現在は一児の母。

衣装:

澤 穂希(さわ ほまれ)

酒井 富士子(さかい ふじこ)

株式会社回遊舎 代表取締役。上智大学新聞学科卒業後、日経ホーム出版社(現、日経BP社)に入社。「日経ウーマン」「日経マネー」副編集長歴任後、リクルートに入社。「赤すぐ」(赤ちゃんのためにすぐ使う本)副編集長を経て、2003年から現職。近著に『60代の得する「働き方」ガイド』がある。

酒井 富士子(さかい ふじこ)